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旧前川邸 歴史コラム

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釣洋一先生 旧前川邸歴史コラム 第3回:山南敬助切腹
山南敬助切腹の間

釣先生の歴史コラム。第3回の今回は、山南忌の申し込み締め切りが今月末、ということもあり、「山南敬助切腹」について書いていただきました。

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山南敬助の墓

 新選組の大幹部山南敬助は、元治2年2月23日(1865.3.20)脱走の咎で切腹しました。壬生光縁寺の墓碑には、慶応元乙丑之年二月二十三日没と刻まれています。
 元治2年が慶応と改元されたのは4月7日(1865.5.1)のことですから、山南の墓碑が建立されたのは改元以降のことになります。光縁寺の過去帳では5月2日に亡くなった近江屋徳という女性のところで<<改元慶応元年丑歳>>の記載があります。ところが9月2日に亡くなった松原忠司や12月12日に亡くなった桜井勇之進の年号が何としたことか<<元治二年>>になっています。つまり、此処の石屋にとっての改元は慶応2年になってからのことで、早くても大石造酒蔵の墓を建立した時のことかも−−という疑問がありました。


 ともあれ、山南は沖田の介錯で切腹したといわれます。
 最初、田野さんに案内された時、山南切腹の部屋(最初の写真)は田野さんのベッドルームとして使用されていたのですが、委細かまわず快く見学させて下さいました。

 部屋は仕切られ、明里との惜別のことばを交わしたという出窓は失われているため、どうしても山南が死に臨む座のイメージが鮮明に浮かんできません。それは私の想像力が不足している事と頭(かぶり)を振ったものです。

 山南と明里の別れは、女性ファンの紅涙をしぼる珠玉の名篇として語り継がれる話だと思います。互いに手を取り合って涙したであろう今は無き出格子の窓を脳裏に刻み込みながら、山南の軌跡を追い求めたのですが、その実態は掴めていません。

抜け穴
山南と明里が惜別の涙を流した出窓は無くなったが、
坊城通りへ抜ける非道の抜け道が設けられていた。
↑写真↑は抜け穴口。



  山南の読み方は、ヤマナミと呼んでいますが、サンナンというのが本当らしいです。
 山南は仙台の脱藩といわれていますが、30000人程の分限帳から<<山南>>もしくは<<サンナン>>の名を見出すことはできませんでした。一つの考え方として、藩士に仕えていたということなのかもわかりません。剣は北辰一刀流といわれていたのですが、小野派一刀流であることを新選組研究家の清水隆さんが見付け出しています。

 山南が池田屋騒動に参戦しなかったのは、屯所の留守を預かったためと思っていたのですが、文久4(1864)年正月の事、大坂高麗橋の岩城升屋での戦斗で、佩刀赤心沖光を折り、刃がぼろぼろになる程の激斗によって深手を負った為でした。この事件は、余り知られていなかった−−というよりは、まるっきり知られていない事件でした。刀が折れた図を小島政孝さんが発表して知られたのですが、その場所と期日については清水さんの追求によるものです。この事件から一ヶ月程経った2月2日、多摩郡蓮光寺村の富沢政恕(まさひろ)が壬生の土方、沖田、源三郎らと酒を酌み交わして歓談しましたが、その時、山南は病に伏して会えなかったと云っています。
 山南は池田屋騒動に蛤御門の戦いに参戦することなく、岩城升屋の事件から1年後に脱走事件を起して切腹ということになるのですが、脱走の要因が究明されていません。
 
 要因一◆西本願寺への屯所移転に反対するも意見が通らなかったため。
 要因ニ◆尊王思想をかかげた伊東甲子太郎に与(くみ)したことで反発。
 等と云われています。しかし、これらの話を具象するまでもなく、山南が離隊の理由とするには大きな矛盾がすぐに浮かびあがります。

 西本願寺への移転は、仮に山南が反対していたとしても、自分の意見が通らなかったからといって、脱走という妄挙に出るほど短慮で意気地ない男とは思いたくありません。近藤・土方・沖田とは江戸試衛館時代からの盟友ではありませんか。山南が仮に本願寺を総本山とする浄土真宗だったとしても、屯所移転に反対して死地へ赴く脱走には繋がりません。脱走という愚かな行為によって屯所反対の精神が削がれました。反対の意思を通そうとするには、脱走では何の意味もありませんから、切腹という死の抗議でなければなりません。それにしても蛤御門の戦い後の混乱した京洛の護衛者としての新選組が移転するのだから、本願寺は守られるというように考えられなかったのでしょうか。−−いずれにしても、屯所移転が山南の切腹した理由にはなり難いのです。

 一方、勤皇の志篤い伊東甲子太郎の同盟によって、近藤、土方、から伊東へ心を移したとするにも、近藤、土方から離反する要因としては余りにも希薄だと思います。
 近藤は巷間伝えられる程<<佐幕、佐幕>>といった幕府の走狗ではありません。尊王攘夷の志をもって上京した近藤は、公卿と武士が一緒になって夷敵に当たらなければならないという持論を展開しています。そのような時期に内乱を画策する西国浪士たちの行動に牙を噛む近藤の心境こそ同情されるべきことと思います。


 人間には<<運命を変えた一言>>という言葉があります。雄弁な伊東の一言に感動したとしても、脱走・切腹に繋がる道理は無いと思うのは私一人でしょうか−−。

 ともあれ、山南は武士として、剣をとれないほどの躰になっていて、脱走に名を借りた隊士への戒めのための切腹と考えるようにしています。
 これは私の勝手な想像ですが、死者に鞭打つつもりはありません。あくまでも士魂追求の一端を垣間見る思いで述べた次第です。

 そんな山南の英魂を慰めようと、田野さん御父子が、2007年3月11日(日)、<<山南忌 さんなんき>>を催されます。釣洋一の講演もあります。是非、お越し下さい。

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| 釣洋一先生コラム | 18:27 | - | - | - | - |